形を読む 養老孟司著 書評

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受験勉強でメンタルブレイクしそうなので、好きな本について書いてみる。

「この本では、生物の形態を、一般にヒトがどう考え、どう取り扱うかについて、私の考えを述べた。いままで、形態そのものを扱った本は多いが、こういう視点の本はないと思う。」

最初にこのように説明される。この本からは色々なことを教わった。

上記の文章を一度この本を全て読んだ私が一般向けに翻訳するならば、生物の形態そのものについて扱った本は多いが、生物の形態について、一般にヒトがどう考え取り扱うのかについて分類した数少ない本である。という意味である。つまり、ヒトが生物の形態について、その意味を考えるときの、視点に対して分類をした本である。

また、特に学問でヒトが何かを「わかった」ときの喜びについてもまとめで述べられており、一度諦めかけた受験勉強をもう一度頑張ってみようとも思ったきっかけの本である。

後の著者のエッセイ「解剖学という基礎」の中で、彼が最初に書いたこの本では言わば解剖学自体に解剖学を適用した。とある。世間では「それは哲学・言葉遊びだよ」と言われたともあるが、一貫してそれは解剖学で学んだ方法であるとも述べられている。

なお、著者のベストセラーになっている「バカの壁」という本があるが、それは元々この本の中の1エッセイでしかなく、この本が発売されている1980年代にはすでに登場している。そして「馬鹿の壁」は明治38年発行 丘浅次郎氏の「進化論講話」の中の一説を引用したものである。

「理学上の学説の如きは、如何に真理であっても中以下の知力を備えた人間には到底力に適せぬ故、説いても無益である。」

生物を観察する際には4つの視点がある、あるいはそれしかない。

この本での著者の主張の主なものは、ヒトが生物を、特に形態を観察するとき、そこには4つの限られた視点がある、ということである。

それは、以下の4視点である。

(1)機械論的・数学的見方

(2)機能・目的論的見方

(3)発生的見方

(4)進化的見方

機械論・数学的見方

機械論的・数学的見方とは、そのままの意味だが、形態の変化を座標の変化として捉えてみたり、古典力学的に大腿骨の骨稜の走行線と、大腿骨と同じ輪郭の梁にかかる応力線と一致することなどから、モデル性を見出す見方である。これは現在のバイオメカニクスのはしりである。義足等はまさしく、ヒトの身体の投射であろうことが想像できると思われる。特に面白かったのは、オラウータンの頭蓋の縫合が、数学でよく聞くフラクタル構造をとることである。ここではトムソンやマンデルブローが紹介されている。

さらにここでエルンスト・カップが紹介され、彼の「ヒトが作り出すものは、ヒトの身体の投射である」という言葉が紹介される。橋は最小の材料で最大の支持力を持つ骨と、海底ケーブルの電線は、ヒトの末梢神経によく似た構造をとる。計算機や人工知能が、ヒトの脳の投射であることは言うまでもないであろう。

機能論的・目的論的見方

この視点は、「その形はどのような機能を持つのか?」すなわち、どのような目的でその形をとっているのかを説明する見方である。一番簡単な例で言えば、腸は消化のために使われる器官であり、栄養その他の吸収のためにヒダがあり、さらに絨毛があり表面積を増やしている、という機能によって、その構造の意味を説明するものである。ただし、機能が先か構造が先かは、鶏と卵の話に近いとも述べられている。

進化的・発生的見方

この視点は一応は分けられているが、著者も時間軸の長さ、スケールが違うだけであることを述べている。この視点はその生物なりの形が上述したような数学的論理・物理化学的論理・機能的論理に加えて、その中のある種の「くり返し」を探す見方である。

個体の発生は進化と比べれば著しく時間軸の短いものであるが、著者は学位論文で「ニワトリの皮膚の発生」について調べたとき、個体の発生の問題は全て皮膚の発生の中に含まれていると感じた、と述べる。

ここではヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」という言葉も紹介されている。

なお、本書とは別に養老孟司氏の師匠に当たる三木成夫先生の「内臓とリズム」にも記載があるが、ヒトの胎児の発生過程を観察すると、地球上の生物の数億年の進化の過程を一瞬で全て辿っているかのような容貌が観察できることが述べられている。

すなわち、発生には進化が凝縮されている可能性すらあるとも感じ、非常に面白かった。

形態の意味

著者の主張によれば、形の意味は、形を見る立場を決定する。形は元々無限の客観的属性を持っており、そのうちどの視点を取り上げるかは、見る人の観点による。

彼は元であるにせよ解剖学者であるから、死体を目の前にしてそれを解剖する中で、完全に客観的な観察などあり得ないと確信したと書く。上記のように、その形から何を見て何を学び取るかは、観察者の視点によるものであり、そこには主観が隠れている。

そして、科学はその主観をできるだけ紛れ込まぬよう排除する努力を続けてきた。著者はそれこそが、形態の意味を客観化する努力を妨げてきた要因ではないかと記載する。

主観が恣意的なものであることは誰でも知っている。しかし、「主観をもつ」ということはヒトが数億年の進化の過程で獲得してきた「共通の」機能である。そして、生物科学が取り扱っているのは、まさしくこうした、「くり返し」である。個体を代えても個体の「形式」つまり、形はくり返す。

生物の形態の意味を考えるとき、ヒトは何種類の主観を持つのか?それが上記の4つであるという。我々が外界の事象を「客観的に観察できること」自体がこの数億年の進化過程・歴史のおかげであり、脳はそれを反映している。

わかったときの喜び

最後に冒頭で記載した、私が受験勉強をもう一度頑張ろうと思った文章を記載する。

なぜわれわれは意味を発見しようとするのか。それは、おそらく、知りたいからである。あるいは、理解したいからである。「わかった」ときの喜びは、きわめて素朴なものだが、強烈である。それはたぶん「中毒」をひきおこす。アルキメデスが、裸で風呂から飛び出したという話は、「わかった」からである。かれにとっては、それが学会未知の事実であろうと、きわめて高度の論理であろうと、そんなことは無関係だった。かれの発見が、かれにとって、まさしく「発見」だったから、風呂から飛び出した。たとえささやかなものでも、いったん、この種の発作を経験すると、ヒトは中毒を起こす。

受験勉強でも、このような発見が訪れることを、われわれは待っている。。。

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Posted by oden